情報過多

現在のインターネットは、人間が一日に処理できる量をはるかに上回る情報量を提供しています。

そのため、以前からやっていたペースでニュースサイトやブログを見ていると、追い立てられている感覚が増しているようにかんじます。

 

加えて、たいていのニュースやブログ、snsは無料のため、いたるところに広告があって、閲覧しているだけで目に入ってきて、記事への集中を妨げます。
どのサイトもサーバやドメインの費用をペイすべく、ページの途中途中に広告を貼っているからです。
そのページから得たい情報は一つか二つなのに、いらない情報がどっと頭に流れこむのです。

 

これは、対価を払わずに情報を得ようとするなら、仕方のないこと、"当然の対価"なのかな、とおもうのですが、そのせいで、精神面に影響が出てくるようになったら、なんのためにネットを利用しているのか、わからなくなります。

よってわたしは、最近、ニュースをあまり見ないようにしました。
自分には直接関係ない情報にはなるべく接しないようにしようということです。

 

http://susanoo1948.blog.fc2.com/blog-entry-483.html
「続 いのちの波動」

 

自分から湧き出た感情で自分をつらくさせることはないとおもうのです。

 

 

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普通の範囲

通っているクリニックの先生曰く、「発達障害の特性として、単純な作業を根気よく正確に行うのが得意というのがあります。昔はそういう仕事がたくさんあって(というかそういう仕事のほうが多かった)、あまり問題になりませんでした」

それを聞き、ふむふむ、「普通」の範囲って、時代によってちがうんだな、とおもいました。


現代は、社会が複雑になりすぎ、「普通」の範囲が非常に狭められているようにかんじます。
高いコミュニケーションやプレゼン力を必要とする仕事が脚光を浴びたり当たり前になっているので、自然とそういう能力を持っていないひとは脱落していきます。

 

かんがえてみれば、定型発達のひとだって、そういう能力を発揮しつづけることはむずかしい。
だから、ときに精神的に追い詰められてしまうのでしょう。


「誰とも仲良くなれて」「ストレスを日々解消できる」ひとは、超人です。
今の時代は、社会人に「みな、超人になれ!」と言っているようなものだとおもうんですよね。

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普通ってなに?

発達障害の番組を見て、「普通」ってどういう状態、状況をいうのだろうなとかんがえました。

発達障害のひとは、症状を理解していない周囲に「普通にしろ」と言われるそうです。
で、「普通」がよくわからない当事者は、「普通ってどういう意味ですか?」と聞くことになる。
発達障害の特性として、具体的に言われないと明確なイメージを持ちにくいということがあるからです。「適当にやっといて」ができない(やりにくい)

でも、言われた「普通のひと」は、普段「普通」を自分の感覚、自分の尺度でしかとらえていないから、具体的な説明ができない。
「みんな普通にやってるでしょ」で済ませてしまい、逆に、「普通」が理解できない当事者を責めるわけです。

これって、「普通がわからないひと」に原因があるんでしょうか???

現時点では発達障害は15人に1人の割合でいるということです。
そうかんがえると、「普通」のひとが大多数だから、数の論理で物事を押し通しているような気がしてきます。

発達障害と診断されていない定型発達の人間でも、思春期に親や先生から、「人並み」(=普通)の圧力を受けて、「なんで普通にしないといけないんだ!」と反発したことがありますよね。

そういうところから、発達障害のひとがかんじている違和感やつらさを理解できるんじゃないかなとおもいます。

わたしが通っているクリニックの先生は、発達障害の程度はひとによってさまざまで、「ここから」という区切りではとらえられないものです、とおっしゃってました。
つまり、誰しもそういう部分は持っているということなのですね。

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いじめのない朝ドラ

朝ドラにつきもののようになっている、ドラマでの「いじめ」。
いまのところ、主人公が身近なひとに邪険にされているシーンがないので、安心して見ています。

わたしには不思議でしょうがないのですが、一部「朝ドラにはいじめシーンがないと」とおもっているかたがいるらしく(知人が、姑による主人公いじめられシーンを楽しんでる発言をしたことがあり、そのときはちょっとショックでした)

それ以外にも、
「ドラマなんだから、フィクションなんだから、深刻にならなくてもいい」
「人間を描くドラマだから、現実を反映させるべきだ」
などなどのご意見もあることとおもいます。

でも、フィクションだからこそ、いや〜な気分になりたくはないのですよね、わたしとしては。
いじめられているひとの立場でつい見てしまいます。

あと、自分が(自分のなかでは)フィクションをフィクションとして捉えられないアタマ(脳)であるのも関係しているかもしれません。
フィクションのなかの人物に感情移入しすぎてしまう

脳はもともと、現実とフィクションの区別ができないようですが。

世界遺産登録をめざす沖ノ島と関連遺跡群

登録の暫定リストへの掲載が決まっていましたが、先日(5/5)、ICOMOSからは沖ノ島のみの登録を勧告されたと報道されました。
そのため、日本側で登録をめざしていたひとたちは落胆している、とのことでした。

沖ノ島は「海の正倉院」として有名ですが、そこにあるのは、多紀理毗売たきりひめ命を祀る沖津宮です。
この女神は、天照大神と須佐男命の誓約うけいによって誕生した三姉妹の最初の神さまです。
(正確にいうと、天照大神が須佐男命の物実ものざねである剣を真名井の泉にひたして生まれた神。記紀では須佐男命の子ということになっています)

次女にあたる女神は、市寸島比売いちきしまひめ命といい、宗像市にある辺津宮(いわゆる宗像大社)にお祀りし、三女にあたる女神は多岐都比売たきつひめ命、宗像市沖にある中津宮に祀られています。

宗像三神(三女神)は厳島神社の祭神でもありますし、海の神、航海の神であるわけです。

だから、地元のひとや記紀に親しんでいる側から見ると、沖ノ島は単独で存在しているわけではなく、三女神が祀られている地域込みでとらえているんですね。
よって、世界遺産登録にあたっても、沖ノ島だけというわけにはいきません。

たしかに、沖ノ島は出土物がほぼ国宝という「宝の島」ですが、それはモノに限ってのことですし、島には多紀理毗売命が祀られているわけですから、信仰や精神的なものを抜きにしてかんがえることはできないとおもいます。
その点をICOMOSはよく検討したのかなあという懸念があります。
日本側が「関連遺産群込み」で申請したのなら、歴史的経緯や信仰を総体的にとらえてのことでしょう。
それでICOMOSに却下されてしまうのだったら、沖津宮だけを切り離すことになります。

今後、日本側がどう動くのか気になりますが、もしICOMOSが沖津宮のみに固執するのなら、世界遺産登録を見送るのもやむなしというのがわたしのかんがえです。

日本人は「世界遺産」という「外からの価値観」に過敏になりすぎですし(古代からの"習性"だから仕方がないことですが)、「地元振興」の旗に隠れた経済効果に色気を出しすぎている気がします。
それとも、数年の経済効果だけでもいいから、という意識があるのでしょうか(とすれば、三女神さまにご無礼なのでは…)


似たような見方の記事がありました。

あたらしいblog

つくりました。
はてなにあった日記も削除して、ぜんぶひっくるめていろいろ書ける場所にしようとおもい、心機一転です。

ここ二ヶ月くらい、自分の環境ががらりと変わりました。
二月下旬に寒さとストレスで心身症になってしまい(^^;、自分でもこれまでにないくらい精神的にダメージを受けてしまいました。
三月になって自分のことがなんとか落ち着くと、こんどは家族に激変が(笑)
必然的に巻きこまれ。

そんななか、ふと出会ったスピリチュアリズムに引き寄せられ開眼。
以前の自分なら心配性で倒れそうな勢いですが、なんとか平静を保てて生活できているのです。信じられないことに!
あまり心配せずに過ごしていると、今度は、予想外のひとと出会えて親交を深めることができたり、「こうなったりいいな」とおもっていたことが現実になっているのですね、本当にびっくりなんですけど…

スピリチュアリズムにもいろいろあるようですが、わたしが熟読しているのはシルバーバーチの霊訓です。
読めば読むほど、いままで抱いていた世の中や人間への疑問が氷解していく気がします。

そういうのをこれまではちょこちょこssに出していたりしたんですけど、これからはそういう間接的なものではなくて、直接、文にしてもいいんじゃないかという気になり、自サイトに手を入れることにしました。

当面は、自分が学生時代に専攻していた歴史関係のサイトにしようとおもっています。
古代に興味があるので、古代のこととか。
地名にも惹かれるから、地名のこととかも。

万葉集から取った「星の林」も、やまとにちなんでつけてみました。
人麻呂ってすごいですね〜 芭蕉もすごいなとおもいましたが、その一千年前に大先達がいたのですね〜

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